いま江戸歌舞伎から学ぶもの-2


<いま江戸歌舞伎から学ぶものは何か?>

コロナ騒動後の芸術・音楽・文化に歌舞伎から学ぶものをテーマに第2部では、化政期から現代まで歴代の團十郎の歩みと江戸の歴史を考えてみます。
「にらみ!」・・・と言う。歌舞伎界の「宗家」である市川團十郎家だけに許された「邪気祓い」の仕草「にらみ」があります。

九代目團十郎のにらみ.jpg上の「にらみ」は九代目・市川團十郎。三代豊国が描いた浮世絵。東洲斎写楽の描いた「にらみ」も有名。コレラや天然痘などの疫病に襲われた江戸。團十郎の「にらみ」は不動明王の霊徳を表現し邪気を祓う、疫病を治すと信じられていました。
筆者も一度見ましたが日本が誇るべき演劇表現でした。

<化政期の歌舞伎が江戸の粋を創った>
「助六」と言えば七代目・團十郎。写真は江戸東京博物館の展示にある助六の一場面。
20140511-61 江戸東京博物館.JPG
この「助六」こそが「粋でいなせな江戸っ子」の原点となる役柄です。
男伊達な侠客「助六」は伝家の宝刀を探しています。その助六の恋人が「揚巻」と呼ばれる吉原の花魁。金と権力にものを言わせ揚巻に言い寄る「髭の意休」。実は意休こそ助六が探している伝家の宝刀を持っていると言う設定。
これが江戸の人々から大受け。庶民文化の化政ともいわれる時代、「粋でいなせな江戸っ子」が誕生しました。

<七代目・團十郎と市川宗家の確立>
七代目の團十郎は寛政3年誕生し、化政を挟み歌舞伎役者として大活躍。
安政6年に死去。(1791~1850)
七代目團十郎.jpg
この團十郎によって「勧進帳」「助六」「暫」「鳴神」などの演目「歌舞伎十八番」が制定されます。今も残る見栄、隈取、八方などが入っています。
歌舞伎界おける絶対的地位である市川宗家を確立したのです。
しかし時代は「天保の改革」。倹約、風俗取り締まりが行われました。
当代一の“千両役者”團十郎が目を付けられ江戸所払いになります。
七代目・團十郎は栄光と悲劇の波瀾万丈の人生だったのです。

<江戸の三大改革と災害の頻発>
歴史を振りかえります。庶民文化が盛んだった元禄時代と化政時代。その反動のように幕府による引き締め策がありました。「享保の改革」(1716~1745)。「寛政の改革」(1787~1793)。「天保の改革」(1841~1843)の三大改革と呼ばれる質素・倹約を基本にした財政立て直し政策。また風俗の取締りもありました。
そして忘れてはならないのが大災害の頻発。
富士山噴火.jpg
元禄には元禄地震、次年号の宝永の富士山噴火、宝永地震、京都大火など。
文化には象潟地震、丙寅の大火。文政には伊勢・美濃・近江地震、コレラ流行、神田の大火など。
これらの大災害を乗り越えて江戸は発展してきたのです。

<天保の改革と歌舞伎>
天保12年(1841)、中村座の全焼で始まる火災は、付近一帯を延焼し市村座や人形上演座も被災。時の老中・水野忠邦の「天保の改革」で、遠い聖天町(猿若町)に移されました。しかし水野忠邦の思惑をこえて、浅草寺参りの参拝客がその足で、中村座、市村座、河原崎座が連なる猿若町を訪れたのです。
猿若町の賑わい1.jpg
また、その街角では獅子舞、猿回しなど大道芸人が集まり大盛況となるのです。さらに江戸っ子の間で人情話も大いに広まります。
江戸の拡大に伴っての大工や職人が裏長屋の住人として多数いたのです。その庶民層が落語や講談の寄席を増やし、安政5年(1855)には落語が170軒超、講談が200軒超などの寄席が出来たと言います。

<九代目・團十郎は「劇聖」>
市川宗家を確立した七代目・團十郎。その五男が九代目・團十郎になりますが紆余曲折の歩みがあります。彼は生まれてすぐに河原崎家の養子になります。しかし市川宗家に後継者がいなくなり生家に復縁。実の父、七代目・團十郎から家の芸の継承はなかったにも関わらず九代目・團十郎を襲名。九代目.jpg
時は明治維新。
九代目・團十郎は明治という新しい時代に歌舞伎を適応すべく努力するのです。単なる荒事や和事ではなく歴史的史実や心理描写も描くなど演劇改革を進めました。これによって明治政府の高官たちからも支持され、明治天皇の前で「勧進帳」を演じる事になるなど「日本の伝統芸能・歌舞伎」の礎を築きました。

<十三代・團十郎 新しい歌舞伎の時代へ>
十三代になる市川團十郎の襲名披露公演がコロナ騒動で延期になりました。いま雑誌「和楽」で特集号が発売されています。十三代團十郎の大名跡復活は歴史的事件だとの表題も付けています。IMG_2669.JPG
この件で十三代になる市川團十郎の挨拶がネット上にありました。【十二代目が平成25(2013)年2月3日に亡くなってから7年となる来年、再び團十郎の名跡が十三代目としてよみがえります。俳名として二代目團十郎から栢莚(はくえん)を名のり、その俳名を五代目が、人間に及ばない猿という俗信をふまえ、名人に及ばないという意で白猿に変えました。「私も父や祖父にまだまだ足もとにも及ばぬ、これからもっと精進していこうという気持ちも含め、白猿を俳名として名のることにしました」。團十郎という名跡について海老蔵は、「歌舞伎界にとりまして、たいへん重い名跡と理解しております。初代から父の十二代目まで、歌舞伎十八番、新歌舞伎十八番、荒事を中心にやっている家でございまして、いろいろなものを背負い、抱え、その時代に責任をもっていくことが必須になる。そのなかで自分が今できることを、少しずつやっていこうと思います。】との歌舞伎一門の宗家としての決意を述べています。
記:2020年5月10日

歌舞伎 幕.png

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この記事へのコメント

小林成基
2020年05月11日 09:38
1985年に12代目團十郎が襲名するときのポスターの写真を友達が送ってくれました。絵柄は睨みのアップです。海老蔵さんの披露が延期になってるけど、早く睨みで厄災退散になれば良いですね。