「土用の丑の日」―上巻
~江戸期の鰻料理法~
今年の「土用の丑の日」は7月23日(土)と8月4日(木)です。暑い盛りの土用の旬の魚が鰻。万葉集にも鰻が夏痩せに良いと紹介されていたようです。

今年は7月23日の「土用の丑の日」を前に、スーパーマーケットやコンビニでは早くから「鰻重」などの予約を扱っていました。
今回は、鰻の料理法の変遷や面白い話題を探っていきます。
<土用の丑の日と江戸の蒲焼>
鰻が夏バテに良いという考えが「土用の丑の日」と結びつき「土用の丑の日=鰻の日」と江戸時代になったようです。

広めたのは、蘭学者であり発明家の平賀源内と一般的には言われています。
夏場に客が入らない鰻屋から「繁盛の妙案はないか?」と平賀源内は相談をもちかけられました。

平賀源内は栄養価が高い鰻の宣伝に「本日、土用丑の日」と今で言うキャッチコピーを店頭に掲げたらと提案。これが大当たりして鰻屋は大繁盛!!・・・と言うのです。
高松藩士の平賀源内は、宝暦6年(1756)に江戸に出てきました。エレキテルや寒暖計の製作、小説、絵にも活躍した平賀源内は享保13年~安政8年(1728~79)の生涯でした。
江戸風蒲焼の調理法が確立したのは文政(1818~30)ごろと言われています。それまでの鰻の調理法は上方から伝わったものでした。江戸風の蒲焼の調理法は、一度白焼きし、蒸し、さらにもう一度タレをつけて焼き上げるものです・・・と言う事で、土用の丑の日に江戸風の蒲焼を広めたのは、平賀源内ではなく、神田和泉橋の春木屋善兵衛と言う説があります。

『江戸買物独案内』文政7年(1824)には、22件の蒲焼屋の名が記載されています。その中で、春木屋善兵衛の店だけが「丑の日元祖」を名乗っているのです。
ちなみに「『守貞満稿』(もりさだまんこう)によれば『鰻の蒲焼』一皿は200文。(24~50円)=4800~10000円」。庶民には高根の花でした。
※注釈:守貞謾稿は、江戸時代後期の京都・大阪・江戸の風俗、事物を説明した一種の百科事典です。
土用の丑の日の起源は・・・>
「土用の丑の日」は、中国の五行説に基づいています。宇宙も含めあらゆる物事は、有形無形に関わらず、「木・火・土・金・水」の五行に配置されていると言う考え方が五行説です。特に「土」が重なる土用丑の日(両日)に鰻を食べれば夏痩せに効果てき面と言われたのです。

一般的には、夏の「土用の丑の日」のことを、単に「土用丑の日」と言うことが多いのですが、夏の土用には丑の日が年に1日か凡そ2日あり、2日ある場合はそれぞれ「一の丑」・「二の丑」と言いました。特に夏の「土用の丑の日」に鰻を食べる風習は江戸時代からと言います。
<江戸っ子が作った江戸風蒲焼>
初物・美味を追求する“粋でイナセな江戸っ子”。その江戸っ子のおかげで高級料亭から安さ、早さで売る屋台まで幅広い食文化が江戸で発展しました。その一つに鰻の蒲焼もあります。

江戸では、鰻の白焼きを蒸してから焼くというひと手間かけた料理法が流行りました。タレにつけて焼くだけの大阪風とは違い身が柔らかくなります。また前もって蒸しておくので焼き上がりも早いのです。ちょうど野田や銚子の濃い口醤油と流山などで造られた味醂(みりん)を加えたタレが香ばしい香りと照りを江戸の蒲焼に与えたのです。そのうえ蒲焼は酒との相性も良いのです。
江戸の食文化を支えたのは、江戸の町づくりの進展と共に増加した男性の単身者でした。例えば、寛保3年(1743)の幕府の調べでは、男性が約31万6000人。女性は約18万5000人です。
<江戸の蒲焼の人気は・・・>
江戸の蒲焼の人気の秘密の一つ目はタレ。
下総国(千葉県北部)の野田や銚子で濃口醤油が生産され大消費地の江戸に運ばれていました。
寛永年間(1640年代)、江戸市内には大工、石工など数多くの職人衆が集まっていました。当然、京風の薄口醤油ではもの足りない。前述したように流山などで造られた味醂(みりん)と調合されました。蒲焼のタレの完成です。焼くほどに香ばしい香りが漂います。

二つ目は、江戸では鰻を蒸してから焼く料理法が広まっていと言う話もあります。しかし焼きあがった鰻の上に温かなご飯を乗せて蒸したとい説もあります。それはともかくふっくらとした味わいが江戸っ子に大受けだったのは確かです!!
三つ目は、江戸前の鰻は美味いとの風評がありました。
浮世絵に神田川の水道橋が見える場所で鰻を釣っている風景があります。

江戸では日常生活の中で美味しい鰻が捕れたのです。
人口100万都市となった江戸。川に流れる生活排水もありました。
野菜くずや米糠、米粒などが鰻の餌になりました。栄養満点で豊かに肥えた鰻が捕れたのです。しかし「土用の丑の鰻」で江戸前鰻が不足。そこで鰻屋は江戸前以外の鰻を仕入れました。これを「江戸前鰻とは味が違う、まずい!!」と江戸っ子は言うのです。江戸前以外の鰻を「旅鰻」と蔑称し嫌いました。
<鰻の江戸前とは・・・>
江戸の多様な食文化の中で、蕎麦屋が「二八」の看板を立てました。蒲焼屋は、店の前に「江戸前大蒲焼」の看板を立てるようになったと言われています。
(「すし天ぷら蕎麦うなぎ」飯野享一著より)
「絵本江戸大じまん」から文中には「江戸を看板に出すのはおかしいが、鰻は風味よく当地の名物なり」とあります。絵には入り口で団扇(うちわ)を使って蒲焼を焼き、奥の生けすには、鰻が泳いでいます。
<鰻の焼き方・・・>
「串打ち三年、裂き、焼きは一生」と言う蒲焼職人仲間の言い伝えがあります。つまり「焼きは難しい」と言う事です。

香りとふっくらと焼く為には絶えずあおぐ必要がありました。初めのころは扇子(せんす)が使われていたようです。しかし炭火の炎を強すぎると良くないので、扇子から団扇(うちわ)に変わったようです。江戸の蒲焼は焼く技術を向上させました。また蒲焼を焼く団扇の音や匂いが蒲焼屋の売り上げに貢献したのです。
<生類憐みの令と鰻>
江戸前の蒲焼も受難の時もありました。京都の腹開きの蒲焼から江戸の背開き鰻蒲焼が受け入れ始めたものの…貞享4年(1687)、五代将軍・綱吉が「生類あわれみの令」の中で、「食べ物として魚・鳥を生きたまま売買してはならない」と命じました。さらに元禄13年(1700)7月29日には「鰻やドジョウも生きたまま商売しているので、今後は商売することを停止せよ」とのお触れを出しました。しかし江戸の鰻屋では、アナゴといって提供し続けました。それにも幕府は「御用」と命じました。綱吉没後に「生類あわれみの令」は廃止されました。
<余談>
江戸の食文化を愛する事で知られている作家・池波正太郎は自著「男の作法」で、蕎麦や寿司、天ぷらなどの食事作法を記しています。
その中で、鰻の食べ方を・・・

【「うなぎというのは脂があって、しつこいものでしょう。だから、あれを本当に美味く食うためには、それなりにこっちの状態をね…(中略)…まあ、だけど、お香ぐらいで酒飲んでね、焼き上がりをゆっくりと待つのが美味いわけですよ、うなぎが。…(中略)…昔は、うなぎの肝と白焼きぐらいしかないですよ、出すものは、東京のうなぎ屋はね。その代わり、やっぱりお香はうまく漬けてあるからね。まず、お香でもらって、それで飲んで、その程度にしておかないと、うなぎがまずくなっちゃう。】と「男の作法」の中に池波正太郎はうなぎの美味しい食べ方を記しています。
<落語・「うなぎ屋」>
江戸の蒲焼も上方との交流がありました。
落語・「うなぎ屋」の粗筋は・・・
【新しく開業した鰻屋の主人が、上手に鰻を捌けないどころかつかむこともできずに四苦八苦している。それを聞いた若い者二人が「おっさん、鰻ようつかまえんと困ってるの肴に一杯飲んだろ」とやってくる。

「どの鰻にしまひょ」「そやなあ。あ。あの鰻でかくて油乗ってそうや。あれしてんか」「……あ、あれでっか。あれはあきまへん」「何でや」「さあ、店開いたときからいてよりまんねん。額に傷おまっしゃろ。あれ『光秀鰻』いうて、主人に害をなす……」…(中略)…仕方なく主人は注文された通り、鰻を捕まえようとするがなかなかうまいこといかない。「……こないしまっしゃろ……ソオレ! ……あ、逃げた」「これ、逃がしたらあかんやないか」
主人は前に出る鰻を捕まえながら表に出てしまう。…(中略)…そこへ帰ってきた女房「もし、うちの人はどこぞにいきました」「おやっさん。鰻つかんで表出てしもたで」「ええっ! またでっかいな! あの人この前もおんなじことして、堺から和歌山まで行ってしもたんだっせ」・・・・・ようよう主人が鰻と格闘しながら帰ってくる。「おいおい。町内一回りしてきよったで。おやっさ~ん! こっちや! こっちや! ……あ、店の前行き過ぎよった……おやっさん。どこへ行くねん」「前回って、鰻に聞いてくれ」】の一席でした。
次回は、江戸と上方との食文化の違いや蒲焼から鰻丼になる裏話などを紹介します。
制作:2022年7月15日
江戸探偵人
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<参考文献>
▼「すし天ぷら蕎麦うなぎ」著:飯野享一
▼「江戸の食ごよみ」
▼「江戸博覧強記」「大江戸見聞録」「江戸諸国よろず案内」など江戸文化検定協会編史料。
▼「江戸時代のすべてがわかる本」大石学著
▼「うなぎ百選」
▼フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
今年の「土用の丑の日」は7月23日(土)と8月4日(木)です。暑い盛りの土用の旬の魚が鰻。万葉集にも鰻が夏痩せに良いと紹介されていたようです。
今年は7月23日の「土用の丑の日」を前に、スーパーマーケットやコンビニでは早くから「鰻重」などの予約を扱っていました。
今回は、鰻の料理法の変遷や面白い話題を探っていきます。
<土用の丑の日と江戸の蒲焼>
鰻が夏バテに良いという考えが「土用の丑の日」と結びつき「土用の丑の日=鰻の日」と江戸時代になったようです。
広めたのは、蘭学者であり発明家の平賀源内と一般的には言われています。
夏場に客が入らない鰻屋から「繁盛の妙案はないか?」と平賀源内は相談をもちかけられました。
平賀源内は栄養価が高い鰻の宣伝に「本日、土用丑の日」と今で言うキャッチコピーを店頭に掲げたらと提案。これが大当たりして鰻屋は大繁盛!!・・・と言うのです。
高松藩士の平賀源内は、宝暦6年(1756)に江戸に出てきました。エレキテルや寒暖計の製作、小説、絵にも活躍した平賀源内は享保13年~安政8年(1728~79)の生涯でした。
江戸風蒲焼の調理法が確立したのは文政(1818~30)ごろと言われています。それまでの鰻の調理法は上方から伝わったものでした。江戸風の蒲焼の調理法は、一度白焼きし、蒸し、さらにもう一度タレをつけて焼き上げるものです・・・と言う事で、土用の丑の日に江戸風の蒲焼を広めたのは、平賀源内ではなく、神田和泉橋の春木屋善兵衛と言う説があります。
『江戸買物独案内』文政7年(1824)には、22件の蒲焼屋の名が記載されています。その中で、春木屋善兵衛の店だけが「丑の日元祖」を名乗っているのです。
ちなみに「『守貞満稿』(もりさだまんこう)によれば『鰻の蒲焼』一皿は200文。(24~50円)=4800~10000円」。庶民には高根の花でした。
※注釈:守貞謾稿は、江戸時代後期の京都・大阪・江戸の風俗、事物を説明した一種の百科事典です。
土用の丑の日の起源は・・・>
「土用の丑の日」は、中国の五行説に基づいています。宇宙も含めあらゆる物事は、有形無形に関わらず、「木・火・土・金・水」の五行に配置されていると言う考え方が五行説です。特に「土」が重なる土用丑の日(両日)に鰻を食べれば夏痩せに効果てき面と言われたのです。
一般的には、夏の「土用の丑の日」のことを、単に「土用丑の日」と言うことが多いのですが、夏の土用には丑の日が年に1日か凡そ2日あり、2日ある場合はそれぞれ「一の丑」・「二の丑」と言いました。特に夏の「土用の丑の日」に鰻を食べる風習は江戸時代からと言います。
<江戸っ子が作った江戸風蒲焼>
初物・美味を追求する“粋でイナセな江戸っ子”。その江戸っ子のおかげで高級料亭から安さ、早さで売る屋台まで幅広い食文化が江戸で発展しました。その一つに鰻の蒲焼もあります。
江戸では、鰻の白焼きを蒸してから焼くというひと手間かけた料理法が流行りました。タレにつけて焼くだけの大阪風とは違い身が柔らかくなります。また前もって蒸しておくので焼き上がりも早いのです。ちょうど野田や銚子の濃い口醤油と流山などで造られた味醂(みりん)を加えたタレが香ばしい香りと照りを江戸の蒲焼に与えたのです。そのうえ蒲焼は酒との相性も良いのです。
江戸の食文化を支えたのは、江戸の町づくりの進展と共に増加した男性の単身者でした。例えば、寛保3年(1743)の幕府の調べでは、男性が約31万6000人。女性は約18万5000人です。
<江戸の蒲焼の人気は・・・>
江戸の蒲焼の人気の秘密の一つ目はタレ。
下総国(千葉県北部)の野田や銚子で濃口醤油が生産され大消費地の江戸に運ばれていました。
寛永年間(1640年代)、江戸市内には大工、石工など数多くの職人衆が集まっていました。当然、京風の薄口醤油ではもの足りない。前述したように流山などで造られた味醂(みりん)と調合されました。蒲焼のタレの完成です。焼くほどに香ばしい香りが漂います。
二つ目は、江戸では鰻を蒸してから焼く料理法が広まっていと言う話もあります。しかし焼きあがった鰻の上に温かなご飯を乗せて蒸したとい説もあります。それはともかくふっくらとした味わいが江戸っ子に大受けだったのは確かです!!
三つ目は、江戸前の鰻は美味いとの風評がありました。
浮世絵に神田川の水道橋が見える場所で鰻を釣っている風景があります。
江戸では日常生活の中で美味しい鰻が捕れたのです。
人口100万都市となった江戸。川に流れる生活排水もありました。
野菜くずや米糠、米粒などが鰻の餌になりました。栄養満点で豊かに肥えた鰻が捕れたのです。しかし「土用の丑の鰻」で江戸前鰻が不足。そこで鰻屋は江戸前以外の鰻を仕入れました。これを「江戸前鰻とは味が違う、まずい!!」と江戸っ子は言うのです。江戸前以外の鰻を「旅鰻」と蔑称し嫌いました。
<鰻の江戸前とは・・・>
江戸の多様な食文化の中で、蕎麦屋が「二八」の看板を立てました。蒲焼屋は、店の前に「江戸前大蒲焼」の看板を立てるようになったと言われています。
「絵本江戸大じまん」から文中には「江戸を看板に出すのはおかしいが、鰻は風味よく当地の名物なり」とあります。絵には入り口で団扇(うちわ)を使って蒲焼を焼き、奥の生けすには、鰻が泳いでいます。
<鰻の焼き方・・・>
「串打ち三年、裂き、焼きは一生」と言う蒲焼職人仲間の言い伝えがあります。つまり「焼きは難しい」と言う事です。
香りとふっくらと焼く為には絶えずあおぐ必要がありました。初めのころは扇子(せんす)が使われていたようです。しかし炭火の炎を強すぎると良くないので、扇子から団扇(うちわ)に変わったようです。江戸の蒲焼は焼く技術を向上させました。また蒲焼を焼く団扇の音や匂いが蒲焼屋の売り上げに貢献したのです。
<生類憐みの令と鰻>
江戸前の蒲焼も受難の時もありました。京都の腹開きの蒲焼から江戸の背開き鰻蒲焼が受け入れ始めたものの…貞享4年(1687)、五代将軍・綱吉が「生類あわれみの令」の中で、「食べ物として魚・鳥を生きたまま売買してはならない」と命じました。さらに元禄13年(1700)7月29日には「鰻やドジョウも生きたまま商売しているので、今後は商売することを停止せよ」とのお触れを出しました。しかし江戸の鰻屋では、アナゴといって提供し続けました。それにも幕府は「御用」と命じました。綱吉没後に「生類あわれみの令」は廃止されました。
<余談>
江戸の食文化を愛する事で知られている作家・池波正太郎は自著「男の作法」で、蕎麦や寿司、天ぷらなどの食事作法を記しています。
その中で、鰻の食べ方を・・・
【「うなぎというのは脂があって、しつこいものでしょう。だから、あれを本当に美味く食うためには、それなりにこっちの状態をね…(中略)…まあ、だけど、お香ぐらいで酒飲んでね、焼き上がりをゆっくりと待つのが美味いわけですよ、うなぎが。…(中略)…昔は、うなぎの肝と白焼きぐらいしかないですよ、出すものは、東京のうなぎ屋はね。その代わり、やっぱりお香はうまく漬けてあるからね。まず、お香でもらって、それで飲んで、その程度にしておかないと、うなぎがまずくなっちゃう。】と「男の作法」の中に池波正太郎はうなぎの美味しい食べ方を記しています。
<落語・「うなぎ屋」>
江戸の蒲焼も上方との交流がありました。
落語・「うなぎ屋」の粗筋は・・・
【新しく開業した鰻屋の主人が、上手に鰻を捌けないどころかつかむこともできずに四苦八苦している。それを聞いた若い者二人が「おっさん、鰻ようつかまえんと困ってるの肴に一杯飲んだろ」とやってくる。
「どの鰻にしまひょ」「そやなあ。あ。あの鰻でかくて油乗ってそうや。あれしてんか」「……あ、あれでっか。あれはあきまへん」「何でや」「さあ、店開いたときからいてよりまんねん。額に傷おまっしゃろ。あれ『光秀鰻』いうて、主人に害をなす……」…(中略)…仕方なく主人は注文された通り、鰻を捕まえようとするがなかなかうまいこといかない。「……こないしまっしゃろ……ソオレ! ……あ、逃げた」「これ、逃がしたらあかんやないか」
主人は前に出る鰻を捕まえながら表に出てしまう。…(中略)…そこへ帰ってきた女房「もし、うちの人はどこぞにいきました」「おやっさん。鰻つかんで表出てしもたで」「ええっ! またでっかいな! あの人この前もおんなじことして、堺から和歌山まで行ってしもたんだっせ」・・・・・ようよう主人が鰻と格闘しながら帰ってくる。「おいおい。町内一回りしてきよったで。おやっさ~ん! こっちや! こっちや! ……あ、店の前行き過ぎよった……おやっさん。どこへ行くねん」「前回って、鰻に聞いてくれ」】の一席でした。
次回は、江戸と上方との食文化の違いや蒲焼から鰻丼になる裏話などを紹介します。
制作:2022年7月15日
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<参考文献>
▼「すし天ぷら蕎麦うなぎ」著:飯野享一
▼「江戸の食ごよみ」
▼「江戸博覧強記」「大江戸見聞録」「江戸諸国よろず案内」など江戸文化検定協会編史料。
▼「江戸時代のすべてがわかる本」大石学著
▼「うなぎ百選」
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この記事へのコメント
しかし稚魚の不漁や燃料費の価格上昇もあり値上げが目立っています。
値上げの理由は、ニホン鰻の稚魚・シラスウナギの不漁。水産省によると今期(2021年11月~22年1月)の国内漁獲量は10,3トン。前期比1トンの減少との事。東京都中央卸売市場のウナギの平均価格は、1月時点の1キロ=3848円が、5月は5040円に上昇とか。店頭価格も上昇、ウクナイナ侵攻での燃料費値上がりや円安の影響が出ているとの事です。私たち庶民にはウナ重が高根の花になりそうですね…?